村上淳インタビュー(前編)
人間らしくあるための俳優業
太白区にある自身が手がけるブランドのアトリエにて
雑誌『HDP』(講談社)より
雑誌『MEN’S NON-NO』(集英社)より
―〈熱量〉に魅かれて―
聞き手 我孫子裕一(以下我孫子)
1990年代前半、ファッション誌にモデルとして出始めたのが10代ですよね。そして瞬く間に、みんなの憧れの的となります。そもそも、雑誌に登場するようになったきっかけを教えてください。
村上淳(以下村上)
きっかけは藤原ヒロシ*¹くん。16歳のとき、地元の目黒区民センターでスケートボードをしていたら、そこにヒロシくんがきて。ヒロシくんと出会って、僕は劇的に変わったから。DJをやるようになるし、ヒロシくんに呼ばれて雑誌にも出始めて。
*¹藤原ヒロシ/ファッション・デザイナー
我孫子
あっという間に、ストリートファッションのカリスマ的存在となります。そんな中、モデルやストリートファッションに関係するクリエイターとしてではなく、俳優という職業を選んだ理由を聞かせてください。
村上
自然な流れだったんだよね。ヒロシくんと出会って、今の事務所のディケイドに入り、そしたら、CM出ませんか? 俳優のオーディションを受けませんかって。
我孫子
ファッションのモデルと、俳優は似ているようで全然違う表現ですよね。ファッションとしてあれだけ脚光を浴びている中、俳優業を中心に活動していこうと思ったきっかけはあるんですか?
村上
20歳のときに、初めて深夜ドラマをやったんだけど、そのときは楽しいとは思わなかったんだよね。テレビに出れて嬉しいなってくらいで。そのすぐあとに、映画の現場、怖い職人さんたちの中に、ポンってひとり、芝居のノウハウがゼロの人間が放り込まれて、徹底的に〈しごかれた〉んだよね。
我孫子
そんな苦境に立たされたにも関わらず、なぜ俳優業に惹かれたんですか?
村上
映画って100人くらいで作るんだけど「そのライトちょっと右だ!! 左だ!!」とか、みんな叫んでた。当時の映画の現場には、現場の端から端まで届くトランシーバーもなかったから、いわゆる怒号ですよ。そうやって監督をはじめ、職人さんたちが、作り上げた最高のカメラのアングルだったり、光の当たり方だったり、つまり1番みんなの集中力が高まった場所に、俳優は立たされるわけだよ。
我孫子
怒号というからには、殺気立ってるというか、活気のある現場での勢いに惹かれたってことですか?
村上
そう、現場の〈熱量〉。あと、人間っぽさに惹かれたかな。
我孫子
どういうことですか?
村上
やっぱり10代の頃モデルとか、雑誌とかでは、ちょっと出てきた小僧って感じで、もう少し機械的に扱われていたと思うんだよね。そういうことに、自分は人形じゃないみたいなジレンマが生まれるわけじゃん。同時に、自分でも「ムラジュン。ムラジュン」ってチヤホヤされていることに疑問があったんだよね。もっと具体的に言うと、何もしてないのに、なんでこんなにチヤホヤされているんだろうっていう自問自答があって。ここにいちゃいけないとか、このままじゃダメだとか、当然10代なんで、今よりもっと疾走する思考回路だったと思うんだけど、面白いことに20歳という区切りのタイミングで、映画の現場に出会って、その現場に入った時ムラジュンなんて、知ってる人間はひとりもいないわけですよ。しかも、当時は芝居も、あたふたしているわけだから、100人の前で怒られるし。やっぱり怒られるって嫌じゃん。でも同時に褒めてもくれるんだよね。そこで人間的に扱われているって感じたし、脚本を渡されて、みんなで、穴があくほど見て、100人くらいが、あそこまで高い熱量でみんなで進んでいくっていう現場にカルチャーショックを受けたんだよね。
我孫子
今の映画の現場も、当時と同じなんですか?
村上
いや、今は怒号はないよ。
我孫子
では、当時の現場の怒号も含めた熱量に出会っていなかったら、俳優をこんなに続けてなかったかもしれないですね。
村上
多分消費されて終わってたかもしれない。そうやってしごかれたことで、20代の早い段階で、映画を一生やっていこうって思ったんだよね。
我孫子
なるほど。そんな体験が20数年、俳優を続けてこれた理由になっているんですね。また、ムラジュンさんが魅了される俳優という職業と同じ道を、虹郎くんも歩みます。虹郎くんが俳優になりたいと持ちかけられた日のことは覚えてますか?
村上
虹郎は俳優になりたいとは一回も言ってきてないかな。虹郎がずっとフワフワフワフワしていたから、僕が勧めたんだよね。要するに16歳になるまで自分で自分の物事を決定をしたことがない人生だったから。例えば、元奥さんがシュタイナーに入れって言ったら、そのまま入学したり、カナダに留学したのも親の強制。カナダでも、僕と毎日スカイプしていたくらい「この子、いつ学校行ってるんだろう?」って思ってたら、案の定行ってなくて。元奥さんから電話がかかってきて、学校に行ってなくて退学になるって。そんなタイミングで、映画監督の河瀬直美さんから虹郎へ俳優としての打診があって、「ひとつアドバイスしていいか。役者のオファーがきてるけど、俳優に興味があるか?」って尋ねて。これ面白い関係なんだけど、僕は親としては彼の前では存在してないんだよね。つまり親権は向こうにあるわけで、向こうの旦那さん、親父さんがいるから、僕が親父風情で、でしゃばるわけにはいかないんだよ。やっぱりこの古い考え方って、うちの親父のイズムだからさ。「そうね」って。どの立場で発言しているのかわからないけど、虹郎を見ていると、自分が何ものかが、わかってない気がして「役者として、自分とは違う何者かを演じることで、今の自分の気持ちがわかるかもね」って話したんだよね。
我孫子
俳優という職業は、自分とは違う人が、何を考え、どう行動するのか、それを突き詰める職業でもありますもんね。
村上
その役柄を理解しようってことを諦めたら、それは俳優ではなくなるんだよ。つまり、みんなよくインタビューで質問される「この役との共通点はありますか」って問われたら、「ない」と答える人はいない。だけど、自分とは異なることばかりだよ。みんなが見たいのって、波乱万丈な人生を送る人間なわけでしょ。朝起きてコンビニ行って、カフェ行ってっていうのを長回しで見せられても視聴者は喜ばないでしょ。何か非日常のドラマを起こして見せるわけでしょ。
我孫子
つまり、他人を理解しようとしても、絶対に理解しきれるものじゃないし、正解なんてないですもんね。さらに、非日常なことばかりが起こる役柄、つまり、自分では体験していない事柄を抱える人間、例えば殺人鬼の役なら、そんな人間を理解するなんて、より難しいですよね。だけど、演じるには、この役は、こうなんじゃないかって問い続けるしかないってことですよね。
村上
だから、虹郎に「何者かになることを目指すことによって、今の自分が明確にわかると思うよ」って話たんだよね。それは、僕の経験上の話でもあって、理解もしくは読解しようとし続けないといけない。
我孫子
役者とは、演じる人間を理解しようとし続けなければならない。それが、先ほど話に出た、若い頃に叩き込まれた〈しごき〉と同じですか?
村上
そうだね。自分なりに考えろってことを叩き込まれた。考えるってことをやめるなって。
我孫子
そうすることで、自分との違いがわかる、つまり自分のことが少し理解できるってことですよね。そんなムラジュンさんのアドバイスもあり、虹郎くんも俳優になるのですね。また、〈村上虹郎〉になった話も良い話ですよね。
村上
河瀬さんの映画が決まってデビューすることになって、奴も芸名を考えるわけじゃん。でも、僕が虹郎に言ったのは、本名は村上ではないわけだよ、親権は向うだからさ。「本名でも、虹郎だけでもいいんだけど、もし〈村上虹郎〉って選択肢があるんだったら、そうすることで親子の関係を繋いでおきたい」って話たんだよね。それで最終的に彼がチョイスしたのが〈村上虹郎〉だった。選んだ本当の理由は、聞いてないしわからないけどね。
息子である村上虹郎くんと温泉にて
村上淳さんが俳優を職業として選らんだ理由。そして息子である俳優、村上虹郎が生まれた日。後編では、村上淳さんと仙台との関係性についてのインタビュー。来たる8月31日、9月1日におこなわれるポップアップストアでは、ムラジュンさんも来仙し店頭にて、みなさんをお待ちしているとのことです。
SHANTi i POP UP STORE
〈save tonight〉
開催日時:2019年8月31日、9月1日 11:00~20:00
開催場所:ReVoLuTioN
宮城県仙台市青葉区中央2-10-10 REVOLUTION bldg 2F
電話番号:022-262-6864
https://les01.exblog.jp
「村上淳インタビュー(後編)好きな物事で遊び続けるためのアパレル業」はこちら
村上淳
1973年生まれ。1993年20歳で挑んだ『ぷるぷる 天使的休日』(橋本以蔵監督)で映画デビュー。以降100本以上の映画作品に出演。また、自身が手がけるアパレルブランド、SHANTi i(シャンティー)のデザイナー。