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二代野川北山 (前編)

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生きる人形を作る。
二代野川北山 (前編)

仙台に、明治から続く人形師・能面師がいることをご存知だろうか。
山形の新庄まつりや金山まつりで飾られる人形や、過去には福島の菊人形も手がけてきた野川家の四代目、二代野川北山(のがわ・ほくざん)さんに、実に130年以上携わってきた新庄まつりの人形作りや、能面師としての活動を聞いた。

Oct 29, 2018   

山形県新庄市で263年続く「新庄まつり」。宝暦6年(1756年)、藩主戸沢正諶(とざわ・まさのぶ)によって始められたとされるこの祭りは、明治から昭和の一時期、恐慌や戦争によって中止になった年はあったが、人々はそのたびに自らを奮い立たせるかのように復活させ、さらに華々しく盛大に、祭りを盛り上げていった。
 
この新庄まつりでひときわ鮮烈な色彩を放つのが、市民が作る「山車(やたい)」。能、歌舞伎、歴史や伝説から題材を選び、等身大の人形と共に、山、館、花、滝などが配置されたその姿は、まさに圧巻の一言。この山車の上で、時に華やかに、時に恐ろしいほど勇壮にその役を「演じ」ているのが、代々野川家が制作・修繕を行う『人形』である。
 

野川家の歴史

 
二代野川北山(のがわ・ほくざん)さん(以下、北山)
野川家の人形師・能面師としての歴史は、初代野川北山が東京蔵前の人形師、神保平五郎に弟子入りしたところから始まります。10年ほど、かなりの努力をしたそうですが、その甲斐あって弟子の中からただ一人、秘奥の術を伝えられたといいます。その後、初代野川北山は郷里の山形県尾花沢市に戻って、人形の創作や改良をしていたのですが、地元の祭りで使われる人形の制作もするようになり、その評判が新庄市にも伝わって、そこから野川家は新庄まつりの人形制作をやらせてもらうことになりました。

 
 

 
 
その後、人形作りの技は、初代陽山(ようざん)、二代陽山と継承され、現在は二代野川北山が受け継いでいる。初代陽山からは能面も手がけるようになり、以来野川家は、人形師・能面師として活動している。
 
2007(平成19)年に「二代野川北山」を襲名した本名、野川知孝(ともゆき)さんは、仙台生まれの仙台育ちで、今年41歳。幼い頃から父親である二代陽山に師事し、人形師・能面師として修行を重ねてきた。
 
 

 
 

6歳で弟子入り。親子として、師弟として

 

白式尉(二代野川北山作)

 
 
北山
小さい頃は、体を動かすのが好きな普通の子どもでした。サッカーをやったり、母がやっていたテニスをしたり。そのテニスコートの近くに乗馬が出来るところがあったんですが、見ていたらどうしてもやりたくなって、乗馬もやらせてもらいました。
 
「能面師・人形師を継がなければいけない」と言われたことは一度もありません。父の工房は自宅にありますので、幼いながらもその姿を見て、ものを作ることに興味はあったと思います。実際、小学校に入る前から彫刻のまね事はしていました。もちろんその頃は、小学生が作るようなものしか作っていませんが(笑)。でも親はわかっていたのかもしれません、ものを作ること、彫刻が好きなことが。
 
5歳の時に「やるならケジメをつけなさい」と父から言われたことをなんとなく記憶しています。父親に連れられて工房を見たことも覚えています。そして6歳の時に「本格的にやるなら、芸の道として弟子入りしなさい」と告げられて、正式に父である二代陽山に弟子入りしました。

 
 
6歳で弟子入り、と聞くと、やはり普通の感覚では驚いてしまうが、「芸事(能)は数え年の7歳から」という風姿花伝(※)の言葉を思い出せばそれも納得である。なにしろ風姿花伝は父の観阿弥とともに能を大成した世阿弥が残した書物である。能面師として生きる野川家がその教えを守らないはずはない。
 
※風姿花伝(ふうしかでん) 日本の伝統芸能である能楽の理論書。能楽を大成した世阿弥が、父である観阿弥の言葉をもとに世阿弥自身の思想を展開し、体系化したもの。
 
 

小学4〜5年の時に作った般若の面

 
 
北山
初めて作ったと言いますか、完成まで彫ったのは、般若の面です。自分でお手本の寸法を測って、見よう見まねで作りました。でも般若の角が彫れなくて、それと毛を描くのも難しくて……。実は、角と毛描きは父にやってもらいました。クオリティは……低いですよね(笑)。「工作」の域を出ていません。「まず完成できた」という感じです。
 
実は、小さい頃に作った面はこの般若の面しか残っていないんです。高校の時だと思うのですが、学校から戻ってくると師匠(父)が焚き火をしていたんです。工房に入ってみると昨日まで作っていたものがない。どこにいったんだろうと思っていたら、師匠が燃やしていたんですね。
 
作っている途中でも、これ以上彫っても駄目だと師匠が思うと、捨てられたり燃やされたりしました。一度や二度ではなく、何度も。般若の面だけ残したのは、クオリティはどうあれ、やっぱり最初に作ったもの、自分の原点だからでしょうね。

 
 
自ら選んだ道とはいえ、作ったものが燃やされる、ということが辛いことであることは想像に難くない。
 
 
北山
もちろん今日まで辛いことはたくさんありました。親への反発がなかったわけではないです。親子でもあるし、師匠と弟子という関係でもある、というのはやっぱりちょっと普通ではないですよね。
 
例えば食事の時はなんでもない会話もするんです。今日はこんなことがあった、とか。でも工房に入れば完全に「師匠と弟子」ですから、敬語で話します。中学、高校の頃なんかは、納得できないこともいっぱい言われるわけです。でもやはり技術でも経験でもかなわない師匠には何も言えませんでした。もちろん、今となっては当時言われたことも理解できます。

 
 

不動明王 二代野川北山作
現在の北山さんの作品。「人々の煩悩や、厄災を滅ぼし、人々や仏教界に害を与える魔物や悪魔を降伏させる力」を持つと言われる不動明王の面は、会社の社長さんに人気だとか

 
 

不動明王(部分) 二代野川北山作

 
 
厳しい表情の中にも笑顔を見せながら、北山さんは続ける。
 
 
北山
やっぱり、自分がやりたいと言って始めたことですから。辞めるのは簡単だと思いました。親から強制されたわけではないですし。でも辞めたら自分を否定することになる。これが一番大きいかもしれません。

 
 
実は北山さんが中学生の頃まで、北山さんの他にも工房にはお弟子さんがいた。当時既に能面師として全国に知られるようになっていた二代陽山の伝統と技術を受け継ぎたいと願う弟子入り希望も少なくはなかった。
 
 
北山
野川家は一子相伝(いっしそうでん)で技を継承しています。中学の頃、私はまだ北山を襲名していませんでしたが、師匠はお弟子さんにお辞めいただき、新たに弟子を取ることをやめました。その頃には自分を後継者として認めてくれたのではないか、と思っています。
とは言え、北山を襲名した今でも褒められることは本当に少ないです。何年かに一度くらいでしょうか、褒められるとやっぱり嬉しいですね(笑)。

 
 
後編に続く

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