荒浜が生んだ音楽家・佐藤那美、ベルリンへ
自分の音楽が自分自身を飛び越えていった
©高野明子
音楽家の佐藤那美さんは、仙台市若林区荒浜地区で育った。海辺にある荒浜は東日本大震災の被害を受け跡形もなく変わってしまった。お祖父さん、愛犬、家、ピアノ、数え切れないほどのものを失った。
震災は佐藤さんにとって切っても切り離せない出来事で、別れや旅立ちといったライフイベントと同じことだという。シンセ、ピアノ、ギター、フィールドレコーディングなどを重ね合わせてつくられる佐藤さんの音楽には、いつでもそのリアルな真実が静かに横たわっている。
『ARAHAMA callings』(2013年)は、大切な風景や記憶が呼び起こされるような美しいアルバムだ。震災でなくなってしまったものや町、人を音楽の中で再構築しようと試みた作品である。音楽を通して「景色、匂い、意識の中の神聖な部分」を表現しようとしているという。
大学在学中の2011年にミュージシャンの七尾旅人さんが立ち上げた、震災孤児を支援する音楽レーベルからミニアルバム『in spring at the north wasteland』をリリース。毎年、「震災遺構 仙台市立荒浜小学校」や「せんだい3.11メモリアル交流館」で行われるイベントや展示にミュージシャンとして参加するなど、荒浜をはじめとする被災地の人々に何か還元したいという想いも活動の一端に持ちながら、音楽制作を続けてきた。
「せんだい3.11メモリアル交流館」の企画展『みんなでつくるここの地図』で制作された楽曲『SHINHAMA』(2017年) は、仙台市沿岸沿いの新浜地域で録音されたフィールドレコーディングが主として構成されている。
震災遺構仙台市立荒浜小学校で演奏する佐藤さん ©鈴木拓郎
震災から6年目を迎えるころ、地元の人だけではなく遠い国の人にも自分の音楽を届けたい、それを聴いた誰かが荒浜に興味をもってくれるかもしれないと考えるようになった。
そして応募したのが、ドイツ・ベルリンで開催された「Red Bull Music Academy 2018 Berlin」(以下RBMA)。音楽史に残るトップアーティストたちと新世代のアーティストたちが交流し、互いに刺激し合いながら現在の音楽の在り方を変えていく場として、Red Bullが1998年から世界各地で開催しているものだ。世界37カ国、多数の応募から選ばれたアーティスト61人の中の1人に、日本代表として佐藤さんは選出され、レクチャー、ワークショップ、パフォーマンスが詰め込まれた貴重な2週間を体験するチャンスを掴んだ。
果たして、どんな2週間を過ごしたのだろうか。RBMAが行われたベルリンから仙台に帰ってきた佐藤さんにお話を伺った。佐藤さんが開口一番、充実感に溢れる満面の笑みで放った言葉は、「人生の基本設定が変わった!」だった。
©Dan Wilton / Red Bull Content Pool
音楽は私がもっている言葉の一つなんだ
―― RBMAで印象的だった出来事を聞かせてください。
1日目、自己紹介をする時間があったんですが、聞き逃してしまっていて、準備していないのに自分の番が回ってきちゃったんです。そんな事もあろうかと備えていたi phoneに用意していたメモを見ながら、必死に自分についてプレゼンしましたが、思うように伝える事ができなくて……。
―― 英語でのコミュニケーション、環境に慣れるまでハードルが高いですよね。
そのあとはトイレに篭って号泣しました。すると、RBMAのスタッフが私を見つけて、湖が見える場所まで連れ出してくれました。まずは深呼吸、そしてi phoneにWhatsApp(日本におけるLINEのようなアプリ)をダウンロードするように勧められました。「何か聞き取れない言葉があったら、WhatsAppで私に合図して」と言って励ましてくれたんです。
―― なんて優しいスタッフ!
それでも毎日が辛くて、他の参加者とセッションはおろか、コミュニケーションをとる方法が完全にわからなくなっている状態でした。私じゃない人が日本代表に選ばれるべきだったんだという思いまでこみあげてきました。実は5日目にはレクチャーをすっぽかしてブランデンブルク門の方まで逃亡しました。
―― 思い切りましたね。(笑)それだけ思い詰めてしまったんですね。
©Dan Wilton / Red Bull Content Pool
8日目、私がライブパフォーマンスをする機会がありました。その夜から流れが一気に変わりました。ライブが終わった瞬間スタンディングオベーションに包まれて、その後片付けをしようと会場に戻ったら、みんなが待っていてくれた。口々に「鳥肌がたった」「涙がでた」「今まで何やってたんだ」「スタジオ来いよ」と伝えてくれて、一人一人がハグをしてくれたんです。この時の光景を私は一生忘れることができないでしょう。死ぬ時に思い出すと思います。
©Dan Wilton / Red Bull Content Pool
その日からは眠る時間がないほど充実した日々でした。他のミュージシャンにキーボードを頼まれてセッションしたり、日本語の言葉を録音したり。あたりまえのことだけど、部屋の隅っこに一人でいるような人間に何ができるかなんて、他の人は知る由もなかった。それがライブを通して圧倒的に変わりました。言葉は喋れないけれど、自分の音楽が自分自身を軽く飛び越えていった。音楽は私がもっている言葉の一つなんだと感じました。
―― 音楽の偉大さを証明する出来事ですね。
最初の1週間は帰りたくて泣いていたけれど、最後の日には帰りたくなくて泣いていました。(笑)
©Dan Wilton / Red Bull Content Pool
©Dan Wilton / Red Bull Content Pool
©Fabian Brennecke / Red Bull Content Pool
©Dan Wilton / Red Bull Content Pool
テクノやハウスを聞くことさえできない国
―― RBMAには世界37カ国からミュージシャンが集まったんですよね。
出発前、私のパスポートについて「あなたはOKだね」と担当者がメールをくれたんです。何がOKなのか、その時は何のことを言っているのかよくわかりませんでした。RBMAが始まってみると、参加予定だったナイジェリア国籍のシンガーがビザを所得できずにベルリンに来ることができなかった。イラン人のミュージシャンも本当に大変な思いをしてビザを取って来たと言います。その国に生まれたというだけで他の国に入国することが難しい人がいるということを初めて知りました。
―― イラン人のミュージシャンは、どんな環境で音楽をつくっているのでしょう?
イランでは宗教の関係で、クラブをつくってはいけない、踊っちゃいけない、お酒も飲んではいけないという法律があるそうです。テクノやハウス、所謂ダンスミュージックを聞くのもつくるのもダメ。イラン人のミュージシャンはベルリンで、毎日誰よりも朝早くスタジオに来て朝の4時まで残っていました。最後の日に自分でつくったCDをプレゼントしてくれたんです。プラスチックの板を手作りでくっつけたCD。それを受け取って、私って本当に何にも知らないんだなと実感しました。
君は君の街で君の文化と君の音楽をつくれ
―― RBMAでは一流のミュージシャンによるレクチャーも行われたんですよね。
いくつかのレクチャーの中で、最も私の心に刺さったのは、デトロイトテクノシーンの立役者、マイク・バンクス(別名義 マッド・マイク)の話です。マイクは、アメリカ・デトロイト出身のミュージシャンです。ジェフ・ミルズと一緒に伝説的なテクノユニット「アンダーグラウンド・レジスタンス」を創設した人でもあります。デトロイトの治安が悪いエリアで育ち、若い頃は借金の取り立て屋のような仕事をしていたこともあったそうです。世界的に活躍していますが、普段はデトロイトに住んでいて、少年野球を教えたり、消防団に参加したり、ローカルをとても大切にしている人なんだそうです。
マイクがレクチャー受講者のグループチャットに、東日本大震災の津波の様子を撮影したYoutubeの動画を送ってくれて、佐藤那美はここからやって来たんだと伝えてくれたんです。その時私はすごく嬉しかった。治安が悪いデトロイトと、震災の被害を受けた荒浜は全く違う環境だけれど、痛みを抱えた上でここから何かをつくろう、変えようという意識は同じ。繋がっていると思ったんです。
「もし君がテクノをやっているのなら、ベルリンに来るのは遅すぎる。君は君の街で君の文化と君の音楽をつくれ」
というレクチャーでのマイクの言葉に胸を打たれました。
©高野明子
聞いたことのない音が聞きたい
―― 仙台に帰ってきて音楽制作に変化を感じましたか?
ただただ良い音を出したいということだけを思うようになりました。聞いたことのない音が聞きたくて。美しい和音やメロディーに興味がなくなりました。ベルリンに滞在した2週間の間、スタジオやクラブの最高の音響環境の中に居るうちに耳が変わってしまったんです。自分の持っている機材、ミキサーやケーブル、オーディオインターフェースなどを買い直しました。
―― 精神的な変化もありましたか?
ベルリンでは、1日で2週間分くらいの感情の起伏があり、2週間が1年くらいの時間に感じられました。二度とあんなことはできないであろう、素晴らしい体験でした。その体験を経て、これまで日本に暮らしているとシリアスな感情になりがちでしたが、人生は自分が考えるほど深刻なものではないと学びました。周囲の人たちが音楽や人生を心から楽しんでいる姿を見て、そう思ったんです。
帰国後も佐藤さんは、荒浜など沿岸部の地域と向き合いながら音楽制作やワークショップを積極的に続けている。これからも佐藤さんは、音楽を通して私たちに見たことのない風景やなつかしい風景を見せてくれるだろう。さらに世界に羽ばたいていく佐藤さんの活躍から目が離せない。
©Dan Wilton / Red Bull Content Pool
佐藤那美 Nami Sato
音楽家。1990年生まれ。宮城県仙台市荒浜にて育つ。仙台を拠点に、ピアノを中心にエレクトロニカ、アンビエント、ストリングスなどのサウンドを取り入れる。東日本大震災をきっかけに音楽制作を本格的にはじめ、2011年 ミュージシャン七尾旅人主催のDIY HEARTSにてミニアルバムを発表。 2013年 震災で失われた故郷の再構築を試みたアルバム「ARAHAMA callings」を配信リリース。2018年、レッドブルミュージックアカデミーin Berlinに選出。クリエイター有志によるメモリアルサイト「Hello, Goodbye. 松島水族館」や現代美術作家 近藤亜樹監督「HIKARI」などのアート作品の他、「国連防災世界会議(2015年)」などTVCMにも多くの楽曲を提供している。 Twitter @o0nami0o SOUND CLOUD