蕭蕭と降り続く雨を、何をするでもなく小一時間、ただただ眺めていた――
あれはいつかの夏の日、富士の麓。
はたして誰が、晴れた日は“良い”天気で、雨は“悪い”などと決めたものか?
テントの幕を伝い、不規則に落ちる心地よい雨音に身を委ね、ぼんやりと栓無き事を考えて。
夕焼けと朝焼けが似ているのは、終わりは次の始まり……その理か?
あれはいつかの晩春、日本海。
べったり凪いだ海に思わせぶり、じりじりと沈みゆく夕陽に寄せ返す波音に向かい、心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなくおもい。
雨音、波音、風の叫びや星の声。
日常において凡(およ)そ意識の外ではあるが、確かに地球に渦巻いている「音」に耳を澄ます。そんな時間が果たして一年、一生のうちに何時間あるだろうか? 都会暮らしの君や私に。
文明の音から遠ざかる。
高い山、深い森、誰もいない海…不便な環境でなければ、絶大なる自然による「不変の音」を聴くことは容易でない。
ただ、“不便そのもの”が遠くなってしまったのかもしれない。そんな風にも思える近代。だからこそ人はキャンプだトレッキングだ、クライミングだスノボだサーフィンだと、自然の中に分け入り、その環境に遊んでもらいたがるのか。
そう、不便じゃ無くなっちゃったからなんだよなぁ……人間だもの。
人間だからこその文明開化、技術革新日進月歩。そんなこんなで100有余年。
人類の進歩と調和は進みに進み、翻って「未来は僕等の手の中」をラジカセで聴いていた、昭和の終わりを鑑みれば、いまや「世界は僕等のスマホの中」。福沢諭吉も相田みつをも岡本太郎も想像し得なかったであろうこの世界。
音楽も本も絵画も映画もお店もニュースもスポーツもゲームもエロスも……大方の情報と欲求は“手の中”で落着となるもんだから、そりゃあいい歳の若者が外界との接触を遮断し、ご自宅にお籠りになっても「慊(あきた)りない」なんてことも無く、安心してプロのニートへの道を歩む事が可能なのである。って、それじゃアカンではないか。
新しい情報でも素晴らしい風景でも、自らの手足頭を動かしエクスプロ―。
現代人に、白瀬矗や植村直己的スピリッツは無くなっちまったのかい?
未踏の地でなくともちょっとした興味に導かれ、額や心に汗して自然の神秘を模索したり、未知の言葉を紐解いたりするのは面倒かい?
そりゃあ人間だもの、便利な世界の方がいいよな。俺だってそっちの方がいいわ。
でも、どうだい兄弟。時にはその音漏れしてるイヤホンを外し街へ出よ。
街を抜け森を越え、分け入っても分け入っても青い山の奥。もしくは他所の国まで続く大海原の波打ち際で、魅力的な程の“不便”に身を投じ、日常には在り得ない野生の気配に呑まれ、前後不覚に陥る。
そしてヒトが作り出したものでは再現不可能な、その瞬間にその場所でしか鳴る事のない、地球のBGMを聴くのだ。
耳と肌と心で。