落書き――。
現代社会においては、それこそ社会正義、公衆道徳、公序良俗に反する「やっちゃダメ!」な行いではあるが、何故か余白空白、ほんのわずかなスペースに何かしら書き(描き)込みたくなる人物というのは世界中に存在するに違いない。
筆者が幼少のみぎりはほとんどの家庭に、いまでいう所の“イエデン”が設置してあった。
黒電話の前に置かれた、話の要点を書き留める為のメモ用紙に、長話をしている母親が無意識のうちにペンを走らせ、不可思議な渦巻きや幾何学的な文様を書いていた……などというシチュエーションを生活の中で度々見かけたものである。
平生の暮らしの中で付近にペンと紙のある場面ならいざ知らず、ひと昔前は公園の公衆便所など「ここにわざわざ筆記具を持ち込んでまで……」と辟易するような場所に、あからさまに卑猥な図画や文言、ひいては何処の誰かも分からぬ人物の電話番号までが書かれていたのだが、個室に座り、壁の落書きを眺めながら、果たしてそれらの作者は一体全体何を考えてそのような愚行に及んだのかしら……?と想像すると、背中や尻に薄ら寒いものを感じ、出るものも出なくなってしまったりもした。
いつのころからか“グラフィティ”とよばれ、キース・へリングやバスキア、昨今ではバンクシーやミス・ヴァンなどによって“アート”へと昇華した落書きもある一方、いかんせん「やっちゃダメ!」なパフォーマンスであるため、一般人が落書きからストリートアーティストの域に達するには様々なハードルを越えねばならないのが現実。
そんな中、誰の目も気にせず、堂々と壁に文言図画が書き込めれる数少ない場所……それがライヴハウスの楽屋ではないだろうか。
無論、その行為を許容していない所もあるとは思うが、ロックバンドが出入りするライヴハウスの多くは、楽屋の壁に出演者のサインや意味不明のメッセージなどがびっしりと刻まれ、中には今となっては押しも押されもせぬ大物になったミュージシャンの駆け出し時代のサインが“お宝”として残っていたりもするのだ。
市内某ライヴハウスの楽屋。
見渡した部屋の壁の一角に見つけた、落書き。
「最近、どう?」と問うタ○リ氏らしき人物の隣で「リアルなのだ」と、バカボンのパパ……奇跡のコラボ。
描いた人物がそれを踏まえたのか偶然かは分からぬが、落書きのきっかけが、絆の深かった赤塚不二夫とタモリの両氏に由来するとしたら、それはまさに仏も知りえぬ「邂逅(かいこう)」
ヘタウマな壁の画を眺めながら、ふと別れの季節。
離れ離れになった大切な人とも、いつかまた予想もしない形で巡り合う日が来るかもしれないな……と、人と人との因縁の不思議について考えたのである。