雪道でスリップ。自損事故で愛車を大破させたという友人に対し、無意識に出た言葉。
「ずいぶんロックだね」
彼に言わせれば「そんな表現をする者はあまりいない」とけげん。
しかしながら、先の様な言い回しは私の周り、近しい友人知人の間ではいたって自然だと思っていたし、時折メディアでも耳にするような気もするのだが――
そんな日常生活における出来事、あるいは人物や、その人の行動、または目に映る風景……
それらの事象を“音楽のジャンル”でもって表現するのは、大なり小なり音楽に携わっている者たち特有の行動なのだろうか。
分かりやすい例を挙げれば、一週の“酷務”を終えて金曜日。社を後に、寒風に背中を丸めながら就く帰路。道すがら、赤ちょうちんに誘われるともなく入った居酒屋で、熱燗をすするその瞬間その姿「嗚呼……演歌だな、演歌」と心中で独り言ちてみたり。
あるいは、赤ちょうちんのひなびた居酒屋から、苦学生風のカップルが一本のマフラーを二人で分け合って出てくる様(そんなカップルは都市 伝説の域を超えないという説もあるが)を目撃すれば「なんてフォークなんだ……」などと思うかも知れない。
もっとも、演歌やフォークソングは、歌詞の世界観が先行してイマジンに直結する場合が多いため、風景や目の前のドラマからそのジャンルに結び付けるのは容易であるのだが。
対して、ロックやパンク、ブルースやハードコア……エトセトラ……。とにかく外来種の音楽となると、その使い道は多岐に渡る。
前述の派手な事故や事件を「ロックだ」と表現したり、生き様で言えばフィンセント・ファン・ゴッホや石川啄木、小説なら西村賢太のそれを「パンクだ」と感じてみたり。
はたまた古めかしい、いわゆる“きたなシュラン”(これもまた古い引き合いだが)のような店を「グランジだなあ」と感嘆。キュビスムの絵画を観ては「うーむ……いわばプログレだな」などと自己完結したり……
とにかく、抽象的表現とは承知していても、ミスター・長嶋的な“感覚表現”としてついつい多様乱用してしまうのが音楽愛好家の習性であり「性」ではないだろうか。
国道沿い。
太白区某所の廃墟の一角に取り残されていた看板「スナック チェリー」。
夕陽を受け、人生の玄冬の如くたたずむその姿、そのフォント……それはまさに“ブルース”をまとってそこに在り、廃墟の界隈を通過する度に、なぜか人生の機微みたいなものを勝手に覚えたりしたものである。
しかし……ブルースと言ってはみたものの、看板を見る度、脳内で再生されていたのはEGO-WRAPPINの「くちばしにチェリー」だったのは言わずもがな。
「スナック チェリー」この記事を書くに当たり、現状を写真に収めようと該地に足を運んでみたのだが、廃墟は真っ新なガルバリウム鋼板の建物に変わっており、ノスタルジアに溢れたあの看板も既に無くなっていた。
間もなく平成も終わり、昭和の情緒を漂わせた様々な風景もふた昔。
いつしか心の奥で、色彩のブルースとなって、流れるばかり。
何気無い日常に彩りを添えるのはイマジネーション。
目に映る景色や出来事に、各々の想像力で鳴らす脳内BGMが日々を越える糧に成る事も、きっとある。