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「タイニーハウス」を設計した⽻根⽥ 将宏さんが笑っている様子

⽻根⽥ 将宏 インタビュー
南三陸町でみんなの居場所をつくる

 南三陸町「さんさん商店街」近くにタイニーハウスを作った⽻根⽥ 将宏さんは、元大手設計事務所の設計士。現在は自身の会社「Bībā」設立に向け(令和3年4月頃法人化予定)、地域素材を生かした建築とそこから広がる地域空間を提案している。
 建築設計の仕事を通して羽根田さんが見出した「場づくり」の面白さとは。地方での働き方についても伺った。

Aug 31, 2020     

8月上旬、場所は南三陸。地元の商店が軒を連ねる「さんさん商店街」を背に、海に向かって伸びている一本道、そしてそこにぽつんと佇む木造の小屋。6畳一間ほどのスペースだが、間口が縁側のように開放され、海風が抜けて心地良い。

この木造の小屋「タイニーハウス」を設計した⽻根⽥ 将宏さんは、関東で設計の仕事を経て、2年前に南三陸町に引っ越してきた。町の人とも気さくに話すフランクな様子から、すっかり町に馴染んでいるようだ。

「タイニーハウス」を設計した⽻根⽥ 将宏さんがインタビューに応える様子

― 今の南三陸は、かもめが鳴いていて人々の営みがあって、日常感がありますよね。

メディアの情報が先行だったので、震災の傷跡が残る重々しい空気があるのかなと思っていました。実際に来てみると想像よりのどかでしたね。

― 福島県福島市のご出身の羽根田さん。海がある県の生まれということで、南三陸は馴染みやすかったのでは。

福島というよりは、母親の実家が茨城県の海沿いの大洗町にあるので、そこの印象と重なりますね。大洗でもタコなどの海産物をよく食べたりしていました。でも、南三陸のは格段に美味しい。タコもカキもワカメも。

「みなまち原っぱ」から見える海辺には、海に出る船が見える「みなまち原っぱ」から見える海辺の風景

「みなまち原っぱ」に建つタイニーハウス絶賛開発中の「みなまち原っぱ」

― 今日、お話を伺っている「みなまち原っぱ」は、どんな場所なのでしょうか。

「さんさん商店街」から海に抜けていくこの通りは、震災前は「おさかな通り」と呼ばれる地元の商店が軒を連ねるメインストリートでした。地域のお母さんや子どもたちの居場所を担っていたようで、この土地で生きてきた人々にとっては深い想いのあるところです。今この通りは「しおさい通り」と呼ばれていて、その道沿いにあるのが、僕が運営する「みなまち原っぱ」です。
地元の人の思いを受け継ぎつつ、僕としては、地元の人も南三陸に訪れて来る人も含めて交流できる様な、みんなの居場所をゼロから作ることを僕自身のチャレンジとしてやりたいと思い、このタイニーハウスを作りました。

 

その名の通り、小さい家を意味する「タイニーハウス」は、1990年代後半〜2000年代初頭にアメリカで生まれたもの。従来の「大きな家で暮らすことが豊か」とされる風潮から、「必要なものだけでシンプルに暮らす」ことに価値を見出す人が増え、今世界中で注目が集まっている。

タイニーハウスの特徴は、そのミニマムなサイズだけではなく、移動することができるものもあるということ。羽根田さんの手がけたものはどのような特徴があるのだろうか。

 

「少し専門的な話になりますが、通常の移動式タイニーハウスは、道路を直接走るので土台部分を鉄骨で作るのが主流なのですが、牽引免許がないと運べないため、運搬にお金がかかるということと、そのものを走らせるので、車輪や小屋本体が破損するリスクが高いんです。
一方で、僕のタイニーハウスは軽車両で、自転車や人力車と同じ扱いです。トラックに乗せて運べるので、完全木造のタイニーハウスを製造することができるのが大きな特徴です。

その特性を生かして、このタイニーハウスには南三陸産の杉を使い、その杉の木目の良さを生かして焼杉の加工を施したりして、地域の素材をフル活用しています。」

タイニーハウスの外観羽根田さん設計のタイニーハウス。下には車輪がついていて軽車両の扱い。トラックに乗せて移動できる

材木は羽根田さん自ら焼いた杉材木は、南三陸で環境に配慮し適正に管理されているFSC認証を取得した山から切り出した材を使った焼杉。羽根田さん自ら焼いた。時間が経つにつれ味のある灰褐色に変わる
  

世の中の課題を建築に見出す

タイニーハウスの縁側に座る羽根田さん

小学校1年までの幼少期を仙台で、大学卒業までを福島で過ごしたという羽根田さん。半袖半ズボンの出で立ちでタイニーハウスに腰掛ける様子は、少年が自分で作った秘密基地にいる様だが、一体どんな子どもだったのだろうか。

 

物静かなゲーム大好き少年で、めちゃくちゃインドアでした。スポーツ少年団でバスケはやっていたけど、基本的には外に出たくない子でした。
姉二人で末っ子ということもあって、ままごととか、シルバニアファミリーでよく遊んでいましたね

― インドア少年はいつから外へ?

大学でも基本インドアだったので、22歳で入社して社会人になってからですね。会社の先輩には、外に出ていろんな文化に触れろって言われて(笑)

― 大学では、なぜ、建築学科を選んだのでしょうか。

中学の時に、テレビ番組の『大改造!!劇的ビフォーアフター』を観てからかな。建築を知らない僕にとっては、輝かしい世界に映って。工業高校から日大の工学部に進んだのですが、だまされましたね(笑)
テレビでは見栄えの良いところだけを切り取っているけど、実際の世界は全然違った。それでも、大学へ行ってよかったなと思ったんです。卒業設計をはじめ制作をしっかりやったお陰で、ちゃんとした建築の楽しさを知っていきました。

― 建築は、ゼロベースから素材を組み立てて作っていくもの。こんな感じでいいやでは通用しない世界ですよね。

テレビで取り上げられる建築は、見た目と使い方、居住性くらいのところまで。大学では研究室の先生と話しながら設計を進めていったんですが、「世の中ってどうなっているんだろう?」「自分はどういうことに興味関心があるんだろう?」といったように、ただ見た目をかっこよくするだけじゃなくて、いろんな視点で建築の箱をつくるというのを教えてもらいましたね。

― 大学の課題では、実際に建物を作りましたか?

建てるところまではいかなかったけど、コンセプトを考えて、設計図を描いて、模型を作って展示するところまではやりました。
僕が扱ったのは「廃寺(はいじ)」。廃棄されていくお寺です。通常、お寺は檀家さんがいなくなると廃棄されるんです。それを、今どきでいうリノベーションをして、コスプレイヤーの人たちの活動拠点にする、というものでした。

― なぜ、コスプレイヤー向けに?

当時、「一番エネルギッシュな人たちって誰だろう?」と考えた時に、オタクだなって思ったんですね。コスプレをして街の中を歩くという行為を真剣にやっているところに、オタク気質的な没頭する力を感じて。そこにめちゃくちゃ興味が湧いたんです。

― 実際にコスプレイヤーの方々に会ったりしたんですか?

その時はしなかったけど、何も知らずに終わるのは良くないと思って、後からコミックマーケットには行きました(笑)学生の頃にイメージとしてもっていたオタク気質とは違っていて、コスプレを趣味としてやっている人たちがいるんだ、という印象でしたね。

― 普段は公務員で、時々ゴスロリファッションで街を歩くという知人がいます。実際にその方がそういうファッションでいるところを見たことがないのですが、その時は、別の自分になれる感覚だと言っていました。

わかる。23歳の時、大学の先輩と日暮里の街をフランス人気分で歩く、という試みをやったことがあります。紙袋にフランスパンと果物を入れて持って歩くんです。外国の人に「フランスパン持ってんじゃん!」みたいに声をかけられたら、それをあげる、みたいな(笑)

― 面白い! ハロウィンの仮装なんかもそうですよね。ある程度、人目を気にしながらするファッション。その中でひときわ目を引くのがコスプレ。

そうそう。

― それで、廃寺をコスプレイヤーの活動拠点にする、というアイディアに対するまわりの反応は?

君は変わってるねって(笑)
当時は、「その人たちの世界を救うんだ! 拠点をつくることでみんながハッピーに暮らせるんだ!」という、なんというか、青臭いノリでしたね(笑)

― 純粋に建物をつくりたい! という強い信念があるとかえって出てこない発想ですよね。いろんなことに興味があったからこそのアイディアだと思います。

在学中、デザイン的にかっこいい模型づくりに注力する人は多かったです。僕は逆で、課題やその建物が与える影響を考えることに興味がありました。

  

建築を体に覚え込ませた修行時代

身振り手振りでインタビューに応える南三陸の羽根田さん

大学を卒業して就職した会社は「日比野設計」。保育園などの子ども施設に特化している設計事務所です。就活はその一社だけでしたが、うまく思いが伝わって入らせてもらえました。

設計の仕事は徹夜もざら。それでもその世界に入ってみないと一生後悔するなと思い、とりあえず数年はやろうと決めていました。
会社の雰囲気は、職人気質というよりかはサラリーマン気質で、人間味あふれる良い人ばっかりでした。

― どのような仕事の進め方なのでしょう?

設計者は15人で、中規模会社では多い方。それぞれに担当案件があって、2人一組で年間3〜4物件を担当します。

大学卒業したては建築の「け」の字もわからないレベル。1〜2年目は「建物ってどうやってつくるんだろう?」「鉄骨構造ってなんだろう?」とか、基礎的なことを学びます。現場では、人の命や工期、お金とかが絡むから、まずは基礎を覚えるのに必死でしたね。

― 知識を得ないと仕事になりませんよね。

『建築基準法』の本でどのページに親指を入れたら該当の条のページが開くかとか、すぐにわからないと話にならないので、スポーツの練習みたいに体で覚えるくらいやってました。今は親指の感覚は忘れたけど、どこにどんなことが書いてあるかくらいはちゃんと覚えてますよ。

― 何年会社にいらしたんでしょうか。

4年いました。4年間は修行だから、ひたすら図面を描いて、勉強して、週末は街へ出ていろんな建築を見る。基礎がしっかりついたのはその4年間のお陰で、体が覚えているんですね。

寝れないから体はつらかったけど、精神は修行だから(笑)負けちゃならない、成長したいっていう気持ちが強かった。ものを作ることに対して、気持ちがすごく反応している感覚。会社は年俸制でしたし、仕事時間は融通がきく上で自分で考えながら作ってたから、寝る、起きる、つくる、という突き詰めたサイクルが、自分の中では筋が通っていたと思うんですよね。

― 会社の人間関係や、仕事が自分に合っていないなど、悩んでいる人が多い中で、羽根田さんは純粋にやりたいことに打ち込める環境を、ご自身で引き当てましたね。

  

一から手がけた保育園

タイニーハウスの縁側を見上げる羽根田さん

仕事を任せてもらえた3年目に、自分で担当した園舎があります。神奈川県平塚市の新築の保育園で、コンセプトから作らせてもらいました。

一つのクラスに一つずつ家を作るイメージで、計7つの小屋をつないでコ字形の建築にしました。全部の小屋が中庭を向いていて、一つひとつがつながって街になっていて、子どもたちがそれぞれの家(小屋)に帰っていく、という空間イメージにしました。小屋に使った素材が、タイル、スレート、金属板とそれぞれ全部違うんです。

― 従来の保育園にあるような、大きな一つの建物とは全く違う作りですね。

どうしても施設の大きさになってしまうんですよね。子どもの場所だから身体感覚的に小さい建物にしたかった。

― 子どもにあわせたサイズ感ですね。子どもって秘密基地みたいなものが好き。幼稚園の教室でもそれぞれに好きな場所があって、バリケードを作ってみたり。

たしかに、そうですね。

― そもそも、保育園を専門に作っている設計事務所を選んだのはなぜだったのでしょう?

自分はもともとインドアだったので、もっと走り回って遊んだりするような豊かな幼少期への欲求があったのかもしれません。自分の願望を込めつつ、子どもたちの最高の幼少期をつくりたかったんですね。

地方で働くという選択

タイニーハウスでインタビューに応える羽根田さん

― 設計事務所に4年間勤めた後、独立しようと思ったのはなぜですか?

4年間子ども施設の建築の現場にいて、建築や保育の法律の壁が苦しいと感じました。僕は、もう少し余白のある保育空間や暮らしの場所を作りたいなと思ったので、いわゆる設計士というポジションには向いていないかもしれないと思ったからです。

事務所を退社した後一年半は、そのまま東京で個人の建築家の方と学習塾を作ったり、保育園の企画提案をしたりしていた、独立の助走期間でした。
そんな時に出会った「Next Commons Lab」は、様々な分野で仕事をしている人たちが所属するコミュニティで、その南三陸支部のメンバーという形で移住した上で、自身の会社「Bībā」設立に向けて動き始めました(令和3年4月頃法人化予定)。
小学1年まで宮城にいたので、東京で修行したらいずれこっちへ帰ってこようと思っていたんです。だからこのタイミングかなと運命を感じて。28歳の時でした。

― 東京との環境の違いをどうやって消化したり補ったりしていますか?

南三陸に来たばかりの頃はアドレナリンが出ていて全部新鮮で楽しかった。でも、だんだん日常に慣れてくると、いい空間を見てそれをインプットしアウトプットできる学びの場がないですね。
それでも、インターネットもあるし、南三陸の近くの登米には建築家の隈研吾さんの建築があったり、東北で建築作っている知り合いがいるから、彼らの作った建築の見学ツアーしてみたり。機動力と文明の利器で楽しんでいます。

― 東京では、こんな人があんなことをやっているんだ、という刺激や、そこからのモチベーションがあったと思います。その辺りはこちらではいかがですか?

いわゆる「建築設計」をしに来ていたら、そこそこでもいいねって言われていたかもしれません。でも、僕のような起業はそんなに前例があるわけではない。それに、起業だとビジネスコンテストに応募してみたり、地域完結で終わらない産業だから、東京のコネクションは増えていくんです。

― 中央と地方、どちらの感覚もあるといいですよね。拠点をどこにするかは今はもう重要ではないのかもしれません。
それに、地方には、大学の頃に学ばれた「単純に家を組み立てるだけではないプロセスや課題」がたくさんありますよね。

もろにある。暮らしてみるとその深刻さも伝わるし、南三陸に住んで良かったと思います。
南三陸だったら、震災から日常に変化していく中で、「場所を作っていくことってどういうことなんだろう?」それを考えるのが大事なこと。
ハード自体のこだわりは無くしたくないけど、そこを重視するのであれば、それが得意な建築家にお願いしてもらえばいいので、僕ができることをやりたいです。

南三陸で挑戦、これからの場づくり

羽根田さんにお話を伺った日の夕方、タイニーハウスのプレオープンイベント「みなまちシネマ」が開催された。
参加者は南三陸と仙台、それぞれの拠点で活動する7名。イベントに興味を持って集まった面々だ。

「みなまちシネマ」は、タイニーハウスを映画館にするというイベント。この日の上映は、フードロスをテーマにした映画『0円キッチン』。

 

 

映画の上映中は、参加者が持ち寄った食材で、南三陸のシェフが即興で料理をするという内容だ。

タイニーハウスでの映画上映の様子。参加者が木の床に座りながらスクリーンを見ている「みなまちシネマ」小屋での映画上映。この日は『ゼロ円キッチン』

「みなまちシネマ」の映画のお供のクッキー。ラベルには「みなまちシネマ」と書かれている「みなまちシネマ」オリジナルの映画のお供は、地元のお店「パン工房Oui」によるクッキー。バジルがたっぷり練りこまれた塩気のある味

イベント参加者が持ち寄ったスイカ、ズッキーニ、トマト、玉ねぎ、かぼちゃ、桃など季節の色とりどりの野菜がテーブルに並ぶイベント参加者が食材を持ち寄り、シェフによって即興で調理される「ギブミーベジタブル」。この日も色とりどりの夏野菜や果物が集まった

提供された食材で料理を作ったシェフが料理を盛り付けているシェフは、仙台のレストランで経験を積み、南三陸に移住された井原さん。たこ焼きとワインのお店を開店予定

シェフが作った料理がバットに入りテーブルに並んでいる。シェフによって見事美味しい3品に生まれ変わった食材。蒸した玉ねぎはメインディッシュ、桃は冷製パスタに

― イベントに参加して、少人数の規模感がとてもアットホームでよかったです。映画でフードロスについて考えさせられた後に、持ち寄った食材で作っていただいたお料理をシェアする、という流れがとても自然でした。

そう言ってもらえてとても嬉しいです。今後も「みなまちシネマ」では、いろんな社会課題をテーマにした映画を上映しようと思っています。そしてその後に、映画にちなんだお料理や飲み物が出せれば最高ですよね。

― 今後の羽根田さんの活動は?

「みなまち原っぱ」のある「しおさい通り」は、今後も新規出店が増えていく予定のエリアです。今はタイニーハウスが1軒ぽつんとあるように見えますが、今後はこういった草の根活動を継続的にしていくことで、一軒一軒増えていって、一つのエリアになっていくようなイメージを持っています。

タイニーハウスでは、いろんな人が期間限定でお店を開いたり、イベントをやったりできるチャレンジスペースとして使える場所にしていきたい。
そんなふうに、熱意を持ってやりたいことをちょうどいいサイズで実現できる場所作りを目指して、僕はタイニーハウス作りを仕事にしていきたいから、まずはここをみんなに開かれた場所にしたい。小さくても一歩一歩あゆんでいける場所として育んでいきたいと思っています。

例えば、タイニーハウスが、町に住んでいる人も観光で来た人もふらっと休める場所にして、ここでお茶が飲めたらいいですよね。宮城で台湾茶をやっている人にお願いして茶葉を卸したので、セルフサービスでお茶を淹れられるようにしようとも考えています。

― アイディアがどんどんふくらみますね。

やっぱり、やりたいことをやっていきたいですね。一方で、気持ちが乗らないようなことにはマジで乗らない(笑)BGM読者の大学生、新社会人のみなさんにも、のらないことはやらない方がいい、とは言えるかな。
でも、やりたいと思ったことはとりあえずなんでもやってみる、その姿勢は大事だと思いますね。

明かりが灯った夜のタイニーハウスの様子

場所:南三陸「みなまち原っぱ」
photo by:浅野拓也

羽根田 将宏プロフィール

1989年宮城県仙台市生まれ。2012年3月、日本大学工学部建築学科を卒業し、在学中は4年間建築・都市のデザインや計画学を学ぶ。2012年4月-2016年3月までの4年間、神奈川県にある株式会社日比野設計にて幼児施設に特化した建築設計業務を行う。 2016年4月-2017年12月、建築企画・設計をフリーランスで始める。隈研吾氏、佐藤可士和氏、URが審査員のコンペ団地の未来プロジェクトにて佳作受賞、また学習塾の内装設計を担当した。 2018年1月Next Commons Lab/南三陸町地域おこし協力隊に着任し、隈研吾事務所へのインターンを経て本事業の創業メンバーとして活動開始する。 問合せ先 https://www.facebook.com/masahiro.haneda.50

※この記事の取材・撮影は感染防止対策を徹底し行いました。

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奥口文結
宮城のエフエム局でラジオパーソナリティとして番組制作に携わり、2019年4月フリーランスに。 宮城を拠点にファシリテーターやMCのほか、もの·ことのブランディングデザインを手がける「FOLK GLOCALWORKS」主宰。

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antennasiasan (vocal) とNerve (track) により1999年に結成。ブリストル・サウンド、ダブなどをルーツとする。アルバムごとに音楽性の幅を広げつつ、一貫して、sanのヴォーカルを軸としたトリッピーなサウンド/ベース・ミュージックを追求している。現在(2018年)まで、国内外のレーベルから、8枚のオリジナル・アルバム、3枚のリミックス・アルバムを発表。