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宮城で採れたしらすを木枠に入れて天日干しをしている様子

有限会社マルタ水産/
「北限のしらす」で閖上再建!!

 宮城の新名物として注目される「北限のしらす」。
 2017年、閖上港などでしらすの水揚げが本格的に始まったことで、加工業者は新鮮な地元産を扱えるようになりました。津波被災から復興する閖上とともに歩んできた有限会社マルタ水産社長の相澤信幸さんと長男で専務の太さんに、しらすにかける思いと古里の未来を聞きました。

Dec 31, 2020     

地域で育てた新名物!「北限のしらす」で閖上再建!

人の心を動かす優れた仕事をしている方にお話を聞く特集 “お仕事の極み”

漁業から水産加工業へ

 待ち合わせは、リゾート地を思わせるおしゃれなお店「Café malta(カフェ・マルタ)」。マルタ水産が今年10月に開いた、閖上の水産加工品を販売する直売所を併設した、しらすがメインのカフェです。

リゾート感のあるカフェ外観白い壁に赤い瓦屋根リゾート感のあるお店の外観。社名にちなみ地中海のマルタ共和国をイメージしたそう

マルタ水産が運営する「カフェ マルタ」の店内。ベンチシートやステージがある大きな窓は、夏の花火大会では特等席に

屋外から見るカフェの庭。芝生に白のベンチなどがあり、写真映えがする屋外スペースには花壇やベンチがあり、屋外も楽しめる
 
初めに、代表取締役社長の相澤信幸さんに創業からの歩みを聞きました。

マルタ水産の代表取締役社長、相澤信幸さん「古里の閖上を再建したかった」と話す代表取締役社長の相澤信幸さん

 昭和30年代まで一家は漁業で生計を立てた後、加工業に転換、早くに他界した父から母が引き継ぎ、主に下請けで焼きガレイやさつま揚げなどを製造したそう。その後、マルタ水産を設立、信幸さんが代表に就きます。この頃には自社製品として閖上名物のカレイ一夜干しや小女子(こうなご)の加工を手掛けていました。

 小女子に商機を見出した信幸さん。春先に地元で揚がった後は太平洋を北上する小女子とともに、自らも移動して仕入れ、ついには北海道の北端に近い利尻島に工場を借り、現地で加工するほどに入れ込んだそう。2008年に長男の太さんが入社し、順風満帆に思えた11年3月、東日本大震災の大津波が閖上を襲います。

マルタ水産が運営する閖上の加工品を扱う「直売所」でスタッフが業務を行う様子直売所ではマルタ水産の商品の他、名取·閖上の加工食品が並ぶ

マルタ水産で扱う商品の様子マルタ水産の商品
 

震災からの再建
息子がいなきゃできなかった

 閖上は街全体が甚大な被害を受けました。家族は無事でしたが、自宅も工場もすべて流出。しかし信幸さんの行動は迅速でした。4月には、被災者支援に名乗りを挙げた静岡県のしらす加工会社へ太さんとともに働きに出ます。「今地元にいても何もできない。ならば勉強しようと思ってね」。地元で再建する意思を、すでに固めていたのです。

マルタ水産の皆さんと静岡の支援企業の集合写真静岡県のしらす加工会社の皆さんと信幸さん、太さん(写真提供:有限会社マルタ水産)

 半年後、閖上に戻った信幸さんは、プレハブ仮設住宅の台所でカレイの加工を始めました。そのうち、旧知の同業仲間から工場の一角を借りて赤貝の出荷と加工を復活。船をなくした赤貝漁師らの働き口にもなりました。12年2月に仮設商店街「閖上さいかい市場」へ出店、5月に仮設工場の稼働を開始、そして16年3月、待望の新工場竣工を迎えました。再起を決意した思いを「すべてなくして、これ以上悪くはなんねぇなって。だったら前に進むしかない、失敗も怖くなかったね」と振り返る信幸さん。工場を使わせてくれた仲間や、働き手として来てくれた人にも助けられました。何より「息子がいなきゃ、できなかったな」と照れたように話します。

 

ロシア留学、東京就職
遠回りをして地元へ

 父を支えた「息子」、太さんのこれまでの道のりは、少し遠回りでした。2004年、大学を2年で中退すると水産業に役立つのではとロシアのウラジオストクに語学留学。多言語、多民族の厳しい環境で鍛えられて帰国、学びの重要性を感じ大学へ再入学します。卒業後は東京へ就職しますが、その後帰郷し家業へ。3年後に震災に遭いました。

 実は、震災前から水産業の将来に漠然と不安を抱いていた太さんは「これで辞められる」と思ったそう。ところが、過酷な状況にめげず前しか見ない父の姿に心を打たれ、「水産の世界で飯を食ってやる。閖上も俺が復興させる」と腹をくくります。

マルタ水産の専務、相澤太さん「閖上を人が集う場所にしたい」と話す専務の太さん

 信幸さんとともに静岡で働いた後、閖上へ戻らず東京の大手水産加工会社へ就職。「復興のエネルギーに対して、自分は明らかに力不足だった」と太さん。跡継ぎという立場ではない環境に身を置き、大都会で一人前になることを自らに課しました。外食チェーンなどの法人向け営業職として5年半勤め、17年に閖上へ。賑わいには程遠く、広大な更地にポツンと工場が建つだけの古里を前に「不安より希望、自分を試したいという気持ち」だったそう。復興に携わることを尻込みした5年前と違うのは、苦しさの多かった東京生活を乗り越えた自信でした。

 

閖上にしらすがやってきた!

 折しも、主力である小女子の漁獲量は減少の一途、さらに高級食材として名高い赤貝は貝毒の被害が増え、禁漁など規制されることもあり、閖上の漁業は転換期にありました。従来、しらす漁の北限は福島県まででしたが、仙南地域でも許可を与えるよう、宮城県に要望を出し続けていました。念願叶って許可が下り本格操業が始まったのは、太さんが帰郷する17年。浜は「北限のしらす」の朗報に沸き立ちました。

採れたしらすを船からおろす様子水揚げされたしらすを運ぶ様子(写真提供:有限会社マルタ水産)

 マルタ水産はさっそく、静岡で学んだ技術を生かしてしらす加工に取り組みます。当時、福島県から閖上へ移転してきた加工業者は主に「しらす干し」を製造していましたが、太さんらが静岡で習得したのは塩茹でしてそのまま商品にする「釡揚げしらす」。県内では珍しく他にない技術は強みになりました。さらに、コストをかけてもうまみのある天日塩を使うことや、しらす干しを作る際に必ず天日干しをすることなど、品質本位のこだわりを貫きました。その甲斐あって同社の「北限の釡揚げしらす」は、18年の宮城県水産加工品品評会で最高賞の農林水産大臣賞を受賞。でも何よりうれしかったのは、閖上の新名物に育てようと小売業者らが高値をつけてくれたことだと二人は口を揃えます。「それによってうちは原料を高く買える。すると漁師さんは喜んでたくさん獲るし、鮮度管理も徹底してくれる」。浜に好循環が生まれ、売り上げも右肩上がりとなりました。

マルタ水産の主力商品、「北限のしらす」とマルタ水産オリジナルの自慢のタレ「北限のしらす」を使った商品。しらす丼のタレはマルタ水産オリジナル
 

会社の垣根を越えて
地域活性化

 2018年、閖上水産加工組合14社の若手後継者らが、地元の発展を主体的に担おうと「yuriage suns(ゆりあげ・さんず)」を結成。太さんは事務局長に就きました。「しらす祭り」などイベントの企画運営の他、繁忙期に企業間で人材やトラックをシェアしたり、営業の際に互いの商品を合わせて売り込んだりと、これまでにない取り組みを行っています。同業他社と情報や人材、営業活動を共有するなど、少し前では考えられないこと。隣りで聞いていた信幸さんは「驚いたよ」と苦笑しつつも、太さんを頼もしそうに見つめます。「商い上はライバルでも、閖上人としては仲間」と太さん。ともに震災を経験したからこそ、同じゴールに向かって手を携えあえる。「チームを組めば発信力が高まり、全体のビジネ
スチャンスが広がる」と力強く語ります。

 若い人にも魚の食文化や水産業に関心を持ってもらいたい、と開いたカフェも、メンバーの一人と構想を練り上げたことで実現したそう。自慢のしらすを洋風ごはんやピザ、パスタなどと合わせて提供します。看板メニューの「しらすプレート」はしらすかけ放題とメーカーならではの大盤振る舞い。「しらすは主役になりにくいが、最強の脇役。どんな料理にも合うことを知ってもらいたい」と話します。

宮城で採れたしらすを木枠に入れて天日干しをしている様子しらす漁は7~11月。天気の良い日に天日干しを行い加工する

 街全体を5mまでかさ上げし、復興の入り口に立つ閖上。「多くを失ったけど、だからこそ多様性や新しい魅力を生み出せる」と太さん。「昔からあるものと新しい文化を混ぜ合わせて、ボーダーレスな時代に対応したい」と語ります。コロナ禍の学生や新社会人にメッセージをお願いすると「もどかしいですよね」と思いやりながら、「でも大事なのは目の前のことに一生懸命取り組むこと。今が思い通りでなくても、努力を積み重ねれば納得がいく。自分は遠回りしてよかったと思っているんで」と話してくれました。

 
閖上にある本社工場の「マルタ水産」の看板文字。マルタ水産は屋号の「丸太」からとったそう

●有限会社マルタ水産

 1968年創業の名取市閖上に本社を置く水産加工会社。赤貝や小女子などの加工・販売を行う他、宮城の新しい名産「北限の釡揚げしらす」の加工・販売も開始。2020年10月には閖上の特産品を扱う直売所を併設したカフェを開き、閖上の地域活性を目指している。 http://www.maruta-suisan.jp/

※こちらの記事は、2020年12月31日河北新報朝刊に掲載されました。

撮影 Harty(中田 麻衣)
※この記事の取材・撮影は新型コロナウイルス感染防止対策を徹底し行いました。

Posted in FEATURE, 特集 お仕事の極みTagged , ,
鶴岡彩
京都生まれ京都育ち。信州・松本で北アルプスを眺めながら数年子育てに専念、2005年から仙台でフリーライター。食、ものづくり、子ども、スポーツ、旅の周辺にいる人へのインタビューが好き。

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BGM of "BGM"

antennasiasan (vocal) とNerve (track) により1999年に結成。ブリストル・サウンド、ダブなどをルーツとする。アルバムごとに音楽性の幅を広げつつ、一貫して、sanのヴォーカルを軸としたトリッピーなサウンド/ベース・ミュージックを追求している。現在(2018年)まで、国内外のレーベルから、8枚のオリジナル・アルバム、3枚のリミックス・アルバムを発表。